“代用品”ではないオリジナルを追求して

GF Kitchen  山澤 健一

特別扱い

 

生きていれば誰もが一度はこう思うことがあります。

【自分は誰かにとって特別な存在でありたい】

自分だけが他の人とは違った良い態度や対応を取られると、人は幸せや生きがいを感じたりすることがあると思います。たとえその行為や言葉が無意識だったとしても、特別扱いされるとその人に感謝や好意が湧き出てきたりします。

しかし、特別扱いという言葉は時に寂しさや疎外感を招きます。同じものを同じように共有できなかったり、分かち合えなかったり。同じ場所、同じ空間にいるのに自分だけが別世界にいるような、そんな感覚に陥ったりもします。特別に扱われるということは良いことばかりではないのです。

今回紹介するのは、明石にあるカフェレストランGF Kitchenを営むオーナー兼シェフ、山澤 健一さんについて。この世にある不条理な“特別扱い”を取り払う、愛に溢れたシェフです。

家庭環境がもたらしたこと

 

東京出身。2歳を過ぎた頃に兵庫県宝塚市に移住。そして1995年におきた阪神淡路大震災の影響で明石に移られた山澤さん。移った理由は祖父母を助ける為でした。震災直後「家の天井から空が見える。」と連絡を受け、慌てて会いに行った記憶があるそうです。

祖父母の家の横で生活を始めた山澤さんでしたが、彼がそこに住んでいたのはわずか1年。その後、岡山にある中高一貫の進学校へ入学することになったそうです。理由はいたってシンプル。「中学生になったら外に出て学びなさい。」という親の方針。“寮のある学校”が第一条件だったと教えてくれました。放任主義などではなく、本人を想うからこその判断なのでしょう。子供の頃から音楽や芸術が身近にあって色々教えてくれたと幼少期を振り返ってくれました。

進学校に入学したということもあり、周りの友人や学校の先生はどの有名大学を目指すのかという話で持ちきり。ただ山澤さんに興味はなかった。それよりも彼には“料理でお店を開きたい”という人知れず心に秘めた夢があったから。芸術に囲まれた家庭環境で、創作欲を養えたことも料理人を目指した理由の一つかもしれない。

「ただ、まだ高校生ということもあって、学校や友達の流れに乗ってしまっている自分がいたんです。最終的には動物も好きだったので獣医を目指すことに決めました。」

簡単に決断したわけではなかった。獣医になるという選択は、当時“料理でお店を開きたい”という自分の夢を実現させられるような選択肢が無かったからだといいます。

「学ぶなら4年間大学でしっかり学びたかったんですけど、料理に関する学校がなくて。もちろん専門学校や調理師学校も考えましたが、やっぱりそうじゃないなと思ったんです。だから獣医を目指し、ゆくゆくセカンドライフとして夢を叶えようという風にシフトチェンジしました。」

しかし、最終的に山澤さんは料理の道へ進むことになります。キッカケは家族や親族の助言でした。

「叶えたい夢があるのにわざわざ遠回りするのか?獣医はお前に必要なのか?」と。

「自分でもわかりきっていた事でしたが、改めて聞くとその言葉の意味は大きかったです。そこから進路に迷うことはなくなりました。道が開けたような感じだった。大学がないなら探せばいい。目標が定まったら自然と考え方もシンプルになりました。」と当時の気持ちを教えてくれました。父がアメリカに4年制のレストラン経営学部があることを教えてくれ、色々と自分で調べ出したとういう山澤さん。その時にはすでに腹積もりは決まっていました。不安や迷いは一切無く、行動はとても早かった。そして高校3年生の夏に留学を決断。英語もままならない青年は1年間の下準備を終えた後、レストラン経営学を学びにアメリカへと飛び立ちました。

「【助言はするが決断は自分でしなさい】。これも親の教えであり方針でした。だからお店を出す今日まで全て自分で決断してきました。納得できているのでそこは親に感謝しています。」と話してくれた山澤さん。自立心を高めてくれた親の教育方針。芸術が身近にあった家庭環境。これは今の「山澤 健一」を形成している大事な要素ではないでしょうか。

芽生えた想い

 

山澤さんの経歴をざっと振り返ってみます。

アメリカ・ペンシルバニア州立大学ホテルレストラン経営学部卒業後、日本食を国際的に広め世界中に支店を持つシェフ「ノブ・マツヒサ」氏の「Nobu」ニューヨーク店と東京店、世界で最もミシュランの星を持つ「ジョエルロブション」氏のケーキ部門「ジョエルロブション ラボラトワール」等で調理や製菓修業を積んだのち、地元明石に戻り「GF Kitchen」をオープンさせる。

とても素晴らしい経歴です。そしてこの経歴のなかに人生を変えるキッカケが大きく3つありました。

一つは、お店を経営する為のレストラン経営学を学びに行ったが、調理師の魅力に気付き抜け出せなくなったこと。二つ目は、お店の都合上“仕方なく”調理師からパティシエになったが、パティシエの魅力に気付き抜け出せなくなったこと。

一つ目と二つ目のキッカケは山澤さんの性格でしょうか。学べることがあるなら学びたい。最終的にお店を開くなら知っておかなければいけないことは多いに越したことはない。研究熱心であり、目標が定まっている山澤さんならではの判断でした。また料理よりも製菓に“ハマった”ことも話を聞けば納得できました。

「料理よりも製菓のほうが断然自由度が高いんですよ。形や色、触感、香りに至るまで、より手を加えやすい製菓は自分に合っていました。」幼いころから芸術に触れ、創造力を養ってきた彼にピッタリの部門でした。

そして最後に人生の大きなターニングポイントとなったのが、ケーキを作りながら接客も行っていた頃の話。あるお客様に“申し訳ない想い”をさせたことが一番のキッカケだったと話してくれました。

「小麦粉が食べられないのですが、このお店でなにか頂けそうなものはありますか?」

ある日、お店を訪ねてきたお客さんにこう質問されたそうです。東京にある名の通った有名店。色とりどりで豪華絢爛な数十種類のスイーツが並ぶショーケースを前に、山澤さんの返事はたったの一言。「プリンだけです…。」

なにも買わずに寂しそうな顔で帰っていったお客さんの顔は今でも忘れられないですねと当時を振り返ってくれました。

“グルテンフリー”という言葉を知り、真剣にそれについて調べ出したのは、その後、接客をしながら何度も「小麦粉を使ってないスイーツはないですか?」と聞いてくるお客さんに出会ったからだという山澤さん。

勉強不足なのでここで詳しい説明はできませんが、グルテンフリーとはグルテンを摂取しない食事方法、もしくはグルテンを含まない食品を指します。そもそもグルテンフリーは、グルテンの入ったものを口にするとアレルギー症状の出る人たちの体質改善が目的の食事療法でした。近年、モデルのミランダ・カーやテニスのジョコビッチなどの著名人が“グルテンフリー”を取り入れたことで認知度は広まってきましたが、当時はグルテンフリーという言葉はまだまだ普及しておらず、そのような製品は数少なかった。そして認知度が広がってきたにも関わらず、未だに“グルテンフリー”の製品や料理が少ない理由はなんなのか。山澤さんが教えてくれました。

「労力や手間、コストが数倍に膨れ上がります。そしてなによりも本来の物と比べると味が劣ってしまうという認識が広く普及しない理由ですね。」

そして山澤さんにひとつの想いが芽生えたそうです。

(本当に小麦粉を使わないで美味しいものって作れないのかな?)

これが後に夢である自分のお店を構える大きなターニングポイントになりました。

“代用品”ではないオリジナルを追求して

 

現在、グルテンフリーをコンセプトにした【G(GLUTEN)F(FREE)Kitchen】を始めて6年目。

決断すれば行動が早いのは昔からの性格。小麦粉を使わない料理の研究と試作を積み重ね、納得のいく料理が完成すると、母が営んでいた喫茶店だった場所を改装し、お店をオープンさせました。

「グルテンフリーの料理をみんなで食べる際、アレルギーのない方が『やっぱり物足りないな』と思ってほしくない。だから味も妥協しません。美味しくないものは提供できないですよ。だからうちの店を“グルテンフリーの店”だと知らずに来て美味しく食べて帰ってもらえるのは理想です。」

山澤さんは、みんなが同じ空間で同じものを食べておいしさや喜びを共有してほしいと優しい口調で話してくれました。そして力強くこう答えてくれました。

「ここで作る料理はなにかの料理の“代用品”であってはいけないんです。」

 

“特別扱い”を無くす意思

 

「家族や友人との食事で、アレルギーのせいでその人だけが別の物を頼まないといけないという食卓は絶対にだめです。自分で選んだわけではないのに【これがいい】ではなく【これじゃないといけない】になるのってとっても寂しいじゃないですか。私は“特別扱い”するのは本当に嫌なので。“これでなくちゃいけない”から“どれにしようかな”へ。これからもっと当たり前に選択肢が増える世の中にしていきたい。それを地元の明石からスタートさせたい。」と熱く語ってくれた山澤さん。

彼はこれからもお客様を想う一心でたくさんの人を笑顔にしていくことでしょう。飽くなき探究心と愛に溢れた料理で。

 

※お店に関する詳しい情報や想いはアカシズカンの【食】に掲載していますのでそちらも併せてご覧ください。